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過剰反応に立ち止まる

過剰反応に立ち止まる

2026年02月08日 17:34

「他人の目を気にしない」が正解になって、「気にしてしまう自分」を責める。気づけば、また新しい正解に縛られている。
他者の目を気にする自分との付き合い方について考えてみました。

目次

  1. 「気にするな」という新たな正解

  2. 気にするのは、人間として自然なこと

  3. 「気にすること」と「支配されること」は違う

  4. 言葉は、関係性の中で選ぶもの

  5. バランスを取りながら生きる

  6. いのちに触れる化粧品 KAGURA

  7. KAGURAの世界観

「気にするな」という新たな正解

「他人の目なんか気にしなくていいよ」
SNSを開けば、こんなメッセージが溢れています。
自分らしく生きよう。
他人の評価に振り回されるな。
あなたはあなたでいい。
確かに、その通りだと思います。

でも、そのメッセージを受け取った瞬間、「他人の目を気にしている自分は、ダメなのか」という思いが浮かぶ人もいます。

気づけば、「他人の目を気にしないこと」が新たな正解になり、気にしてしまう自分を責めている。楽になるはずの言葉が、いつの間にか自分を縛る呪いに変わっていることがあります。

気にするのは、人間として自然なこと

そもそも、人間は社会性が備わっている生き物です。他者の視線を感じ取り、関係性の中で自分の立ち位置を調整しながら生きてきました。それは、人間の生存戦略とも言え、本能に近いものです。

そう思うと、他者の目を気にするのは、恥ずかしいことでも、弱いことでもない。むしろ、「全く気にしない」と人との関わりが難しくなるのは目に見えています。

たとえば、職場で意見を言うとき、少し躊躇する。それは相手の反応を想像しているからです。でもそれは、「空気を読む力」でもある。会議で誰かが落ち込んでいることに気づけるのも、ママ友との会話で地雷を踏まずに済むのも、この感度があるからです。

問題は、「気にすること」そのものではなく、「気にしすぎて身動きが取れなくなること」や「気にしている自分を否定すること」にあります。

「気にすること」と「支配されること」は違う

他人の目を気にしていても、それと「他人の評価に支配される」ことは違います。
何かを発信する前に緊張する。
相手の反応が気になる。
それは自然なことです。ただ、そこに悩みが生まれるとすれば、「うまく話せなかった自分はダメだ」と自らを罰したり、首を絞めるような言葉を自分に浴びせる時です。

相手の反応を感じ取る感度と、それで自分を裁く癖は、別のものです。誰にも上手くいかないことはあると分かっていながら「完璧にできなかった」と自分を責め続ける自分を、また裁く悪循環に入ることもあります。

焦点をあてると良いのは、「他人の目を気にする自分」ではなく、「他人の評価で自分の価値が決まる」という思い込みなのだと思います。

言葉は、関係性の中で選ぶもの

この文章もそうですが、言葉は他者とコミュニケーションするためのものだから、他者を抜いては考えられません。

なんでもかんでもストレートに言うことがコミュニケーションにはなり得ません。関係性の中に流れている空気を感じて、その上でどう振る舞うかを選ぶ。この人に本音を言えば、火に油を注ぐと思えば、言わない。別の言い方をする。
それは、他者を気にしているのではなく、関係の中で言葉を選んでいます。

人によって見せる姿が、違う。
素直に甘えられる人、
背筋が伸びる人、
可愛くなれる人、
素の自分を出せる人。

だから、目の前の人が「なんか自分を偽ってるな」なんて思ったら、それは自分と相手の関係性の中で、相手が自分に見せる側面をそのように選んでいるということです。

相手がどうとかじゃない。

バランスを取りながら生きる

他人の目を「全く気にしない」のも、「気にしすぎる」のも、どちらも極端です。

相手の反応は感じ取る。
でも、それは相手の領域なので、自分の価値をそれで測らない。

場の空気は読む。
でも、自分がそれに振り回されず、押し殺さない。

礼儀は大切にする。
でも、それは「怖いから」ではなく「快適に生きるための自分の美学」。

そんな風に自分がどう在りたいかが一番大切です。
もし今、他人の目を気にしているのなら、「気にする自分もいる」と事実だけ見て、それを悪いことにして、深刻化しない。

気にしながらも、それに支配されない自分がいればいい。時には気にしすぎてしまっても、また自分の中心に戻ってくればいい。

ただ生きる。
それだけなんだろうな。